タニーの歴史

ASPには歴史があります

岬町の誕生とともに育って来たASPには、様々な歴史があります。当時では考えられないイベントや企画で地域を盛り上げて来たASPの歴史をご紹介します。


hist-1.jpg

1966 -タニーサーフ誕生-

岬町が千葉に誕生して間もなく、町おこしのために大谷正一(先代社長)が孝えた事。それが、サーフィンだった。 在日米軍人がサーフポイントとして太東に注目していたからだ。 だが、当時の日本ではまだサーフィン自体がポピュラーなスポーツではなく、彼自身もサーフィンを知らなかった。 そのため、大谷はサーフィンが町おこしのために役立つかを見極めるためにサーフィンをはじめる事になった。

大谷がサーフィンの面白さに気づくのは時間の問題だった。 もともと、好奇心旺盛の彼にはサーフィンはピッタリのスポーツだったからだ。 サーフィンに目覚めるとすぐに、彼は「岬サーフィンクラブ」を立ち上げる。 それと同時に、観光スポットと趣味を兼ねたサーフィン専門店「タニーサーフ」を誕生させる。


hist-2.jpg

1967 -岬ハイ開催-

総観客数はゆうに1万人を越えた岬町誕生後はじめてのサーフィン大会「岬ハイ」。当時、岬町の人口は8千人程度、NHKも取材にくるほどの この企画はもちろん、先代「大谷正一」の手がけたものであった。また、このイベントと同時期にタニーサーフはサーフボードブランド「バンザイ」と 「ケープ99」を主力に拡大を続けて行く。


hist-3.jpg

1972 -世界初の試み-

大盛況だった岬ハイからわずか5年。第1次サーフィンブームと言われたこの年、大谷正一は世界規模の話題性をもつ企画を実行する。 それが世界初の大型スケートボードパーク「太東スケートボードセンター」の建設だ。このパークの話題は、またたくまに広がり 伝説のサーファー「ジェリー・ロペス」も訪れたほどであった。



hist-4.jpg

1981 -大谷秀美-

時代は第二次サーフィンブームを迎える。 その波に乗って2年間の修業を終えた大谷秀美が帰ってきた、正一の意思とDNAを受け継ぐ秀美は、当時7坪程の貸店舗の中に、湘南で学んだスパイスを取込み、 その2年後サーフボード工場『ザ・ファクトリー』をスタートさせるバンザイのリメイク版『バンザイパイプライン』をはじめ『SLAM』、 『BLAST』へとオリジナルサーフボードは進化して行く。正一の死を境に、当時(1993)としてはビーチフロント最大級のショップ『ASP-TANY SURF』がスタートし現在に至る。 2002年ロングボードブランド『DEVOTION』を立ち上げと同時にロングボード専門店『TANY SURF CLASSIC』をOPEN,時代は第3次サーフィンブームと呼ばれている。


hist-6.jpghist-5.jpg